森広忠の名古屋大家道 第54回コラム
『前田利家-家を守り大きくした人-』
今回は、『前田利家』の3回目最終回として、
前田利家の決断についてかきたいと思います。
先日、コラムの取材のために滋賀県北部にある賤ヶ岳に登ってきました。
賤ヶ岳は、羽柴秀吉と柴田勝家とが織田信長の後継者を争って戦った
『賤ヶ岳の戦い』の古戦場になります。
今回のコラムの主人公、「前田利家」は『賤ヶ岳の戦い』で非常に重要な決断をしました。
勝ちに大きく貢献したのが前田利家だったのではないか
さて、『賤ヶ岳の戦い』は北陸の方から攻め寄せる柴田軍と、
賤ヶ岳を中心とした琵琶湖北部周辺で待ち構える羽柴軍が戦ったのですが、結果は羽柴軍の勝ちでした。
その勝ちに大きく貢献したのが前田利家だったのではないか
と私は思っています。
琵琶湖の湖畔に出る道を抑えた羽柴軍と柴田軍とは1ヶ月ほどにらみ合ったそうです。
補給もしにくく、しびれを切らした柴田軍は秀吉が岐阜城へ行くとの嘘の情報にだまされ、奇襲作戦を遂行します。
奇襲作戦は成功するのですが、秀吉は100Km以上先の岐阜にはいかず、
はるか手前、距離として50kmほどの大垣におり、
軍勢がすみやかに帰ってきた上、琵琶湖側からも羽柴側の援軍が来てしまいます。
さらに決定的な役割を果たしたのが、「前田利家」で
柴田軍を裏切り、勝手に撤退してしまい、
柴田軍は総崩れ、北陸へ向けて敗走してしまったというのが、戦いの流れになります。
時系列的にすると以下のようになります。
①北陸から琵琶湖へ柴田軍が来て、待ち構えていた羽柴軍と賤ヶ岳で1ヶ月にらみ合う
②秀吉の主力が岐阜へ援軍に行くとの嘘の情報に騙され、柴田軍は奇襲作戦をする
③奇襲の情報を察知した秀吉は、すぐさま賤ヶ岳に主力を連れて戻ってくる
④柴田軍の奇襲作戦は成功するが、秀吉の主力も戻ってきたため、
奇襲で取ったところを維持できず退却。更には琵琶湖から船で援軍も来て柴田軍は敗走
⑤援軍が来た前後のタイミングで、柴田軍の一翼をになっていた
前田利家は柴田軍を裏切り、退却。
⑥柴田軍は北陸へ敗走。羽柴軍の勝ちとなる。
【賤ヶ岳山頂にある賤ヶ岳合戦図】
写真左上に布陣した前田利家が奇襲部隊を援護するはずだったが、
援護せずに退却したため柴田軍は総崩れとなった。
昔、若い頃にこの話を読んだ私は
「長年の上司だった柴田勝家を裏切るなんて、前田利家は不義理なやつだな」
と思っていました。
しかし、年をとり現地取材をし、歴史の流れを考えると、
「前田利家の裏切りの決断は正しいことで、日本全体にも良い結果を残した」
と、今では思えます。
理由はいくつもありますが、一番大きいのは柴田軍が勝っていたら、
いっときは柴田勝家が大きな勢力にはなりますが、日本は戦国時代が更に長く続き、
豊臣秀吉が成し遂げたような天下統一が遅くなり、
戦争のない世の中になるのが遅くなったのではないかと思うからです。
むしろ、前田利家が積極的に裏切ったため、秀吉軍の本体は温存され、
その後の大きな戦いでも有利に働き、天下統一が早まり、
日本国内での戦争が早く治まったと思えます。
だからこそ、前田利家は、豊臣政権でも大きな地位を持ち、
前田家は徳川幕府でも加賀百万石の大大名となり、
江戸時代が終わるまで、また終わってからも重く扱われたのだと思います。
「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍を裏切った人は、何人もいます。
ただ、これだけの地位と権力を長く維持できたのは前田利家だけでした。
それは、
①失敗をしても取り返していく努力と
②配偶者でパートナーある「まつ」との協力
③時代の変化に合わせていく決断の積極性
があったから成し遂げたのではないでしょうか。
大家さんとして一家、そして土地を守っていくにも失敗もありますし、
夫婦でもめることも、いい決断ができないこともあるかと思います。
しかし、前田利家のように
①努力をし続け、②パートナーと協力し、③時代にあった決断をしていけば、
道がひらけるかもしれません。
私も全てができるわけではありませんが、
結果を残した前田利家・前田家に見習っていただければと思い
コラムを終わらせていただきます。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
まとめ
・「賤ヶ岳の戦い」での前田利家の決断は、歴史に残る決断となった
・現状からの変更は他人からは裏切りのように思われるかもしれないが、
同じ経験がない人からは本当のところは理解してもらえない場合が多い
・時代にあった決断をすることが、家を守り大きくする知恵になる
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