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名古屋人的 大家さんのための歴史 戦国武将編③『前田利家』

森広忠の名古屋大家道 第53回コラム

『前田利家-家を守り大きくした人-』

今回は、『前田利家』の2回目として、奥様の『まつさん』について書きたいと思います。

利家さんの奥様『まつさん』は1547年に生まれました。

利家さんとは9歳年下で、親類同士の結婚でした。

昔、大河ドラマで前田利家とその奥様がえがかれた時、

題名が『利家とまつ』だったので、

『まつさん』をご存じの方ものみえるのではないでしょうか?

幼いころから、愛知郡荒子(現在の名古屋市中川区)の前田利家の家で育った

『まつさん』は、親類の幼なじみ同士が結婚した例のひとつで、

お子さんもたくさんもうけていることや、結婚中や利家さん死後のエピソードを考えると

『夫や息子を助けた女性』だったと私は思っています。

その「エピソード」を2つ紹介したいと思います。

エピソード1)負けた勝家、勝った秀吉に応対をする

利家さんの絶対的上司だった織田信長が本能寺の変で無念の死をとげたあと、

織田家は信長の跡取り争いが活発になりました。

その際対立したのが、利家さんの上司『柴田勝家』と昔からの友人『豊臣秀吉』でした。

勝家と秀吉は、跡取り争いが講じて、戦争になります。

その戦争が琵琶湖の北側『賤ヶ岳』周辺で起こったので、

現在では『賤ヶ岳の戦い』とよんでいます。

『賤ヶ岳の戦い』の話は、次回に譲らせていただいて、

結果は上司の勝家が負け、友人の秀吉が勝ちました。

戦いのあと、利家さんの城に負けてやってきた勝家と、

勝家のでていったあとにやってきた秀吉の接待をしたのが『まつさん』でした。

負けた勝家には、「これまでの感謝と別れ」を、

勝った秀吉には、「家を守り大きくするため」、「秀吉への忠誠」

利家さんと息子に勧めました。

そして、利家さんは『賤ヶ岳の戦い』まで上司だった勝家を見限り、

昔からの友人の秀吉軍の先鋒として勝家軍と戦う決意をし、

実際に戦い優秀な戦果を上げました。

このことが、利家さんの信用を大きく高め、秀吉の身内以外で、

秀吉軍のNo.2の発言力と財力を手に入れることができました。

エピソード2)自ら徳川家の人質となる

秀吉の死後に利家さんもお亡くなりになり、前田家は利家さんの息子が継ぎます。

利家さんの死後、秀吉が残した豊臣家と、徳川家康の徳川家が、

徐々に対立するようになります。

その時おこったのが、『関ヶ原の戦い』でした。

関ヶ原は、岐阜県と滋賀県との境界そばの岐阜県側に位置し、昔からの交通の要所でした。

前田家は、『豊臣家』側の身内以外のNo.2で、

『徳川家』を抑える役割をまかされていたのですが、

『関ヶ原の戦い』では『徳川家』側に付きます。

これを勧めたのが『まつさん』だったと言われています。

息子に『お前なんかでは徳川家康に勝てない』と言い放ち、

自ら江戸へおもむき『徳川家』の人質となります。

そのため、息子さんは母親を殺すわけにはいかないので『徳川家』を裏切れず、

『豊臣家』側から期待されていた抑える役割を捨て、

『徳川家』に寝返ることとなりました。

前田家は、『関ヶ原の戦い』以後もずっと『徳川家』を味方することにしました。

この「関ヶ原の戦い」前からの裏切りにより『徳川家』から信用を受けた前田家は、

江戸時代を通じて『徳川家』からの信用を取り結び、

江戸幕府崩壊まで前田家を存続させました。

 結果として『まつさん』の行動が、

前田家を救い、江戸時代を超えてまで前田家を存続させたのです。

 

賢い女性が、夫と息子を応援し、自らも行動することにより家を存続発展させ続けた。

そんな歴史的な例の一つだと私は思っています。

 

【名古屋市中川区 あおなみ線「荒子駅」前にある『まつさん』の像】

まとめ

・夫婦は互いを認めあい、応援しあえる間柄が理想

・どちらかが「しにくいこと」を相手が補う関係性も重要

・時代の流れを読んだ「行動」がその後の「結果」を変える力を持つ

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ABOUT ME
森広忠
名古屋市出身、名古屋経済大学大学院卒業後、2008(平成20)年シンプルタックス森会計【森広忠税理士事務所】設立。税理士として、個人事業・中小企業の顧問を行う。実家が古くからある地主で、不動産賃貸業をアパート、貸倉庫、貸地、貸家、月極駐車場で営んだ経験あり。 顧問先に不動産賃貸業者が多く、不動産・不動産管理会社を利用した所得税・法人税・相続税の節税相談の経験が多くある。
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