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第58回 大家さんのための歴史―戦国時代編

森広忠の名古屋大家道 第58回コラム

『戦国時代 最高の軍師 竹中半兵衛』上

先月、花の百名山のひとつ「藤原岳」1,140mに登りました。
登ったら4日間、筋肉痛が治らず、全身の筋肉の衰えを痛感し、
新年、新たな気持で身体を鍛え直そうと思っています。


【藤原岳山頂から、12月なのに雪景色で驚きました】

今月から上・中・下3回で、『戦国時代 最高の軍師 竹中半兵衛』についてかきます。

「竹中半兵衛」は、岐阜県垂井町出身の戦国武将で、
豊臣秀吉に「三顧の礼」によって迎えられた軍師として有名な人物です。

戦国時代の軍師としては、山本勘助・黒田官兵衛などが有名ですが、
多分、最も優れた軍師は、この竹中半兵衛だったのではないかと
私は思っています(山本勘助は川中島の戦い中に死んでいるらしいし、
黒田官兵衛は息子を竹中半兵衛に助けられているから)。

岐阜県垂井町は、「関ケ原の戦い」があった、関ケ原町の東にある町で、
「グルマンヴィタル」という美味しくオシャレなパン屋さんあるのと、
知将 竹中半兵衛 生誕の地=歴史の街として町おこしをしています。

まず、垂井町の「JR垂井駅」の前には、「どーん」と、竹中半兵衛の像があります。

ただ、竹中半兵衛は36歳という若さでなくなっているため、
こんなに堂々として、老けた感じではいなかったかもしれません。

上編では、戦国時代の歴史好きの人には有名な、
「稲葉山城(現在の岐阜城)乗っ取り」のお話をかきますが、
竹中さんが城を乗っ取った際の年齢は、19才か20才の頃。

こんなに若くして、
「織田信長が散々苦労し、
難攻不落といわれていた稲葉山城を数人の部下とで奪ったのか」
今回取材していて驚きました。

さて、「稲葉山城乗っ取り」とは、どういう話だったかというと、

永禄10(1564)年の当時、稲葉山城の支配者は、斎藤龍興という人でした。
マムシの道三といわれた「斎藤道三」の孫です。

まだ、10代と幼い龍興は、稲葉山城で遊び暮らし、
取り巻きの部下も、そんな龍興に取りいって政治をないがしろにしていました。

竹中半兵衛もその時は龍興の部下の一人で、弟は稲葉山城で働いていたので、
龍興の有り様や、城の内情をよく知ることとなります。

あるとき、半兵衛は稲葉山城への道中で、取り巻きの部下から
「おしっこ」をひっかけられたそうです。
怒りはしましたが、そのときは何食わぬ顔で帰りました。

その後、準備と稲葉山城との内通を整えた半兵衛は、
城で働いていた弟に仮病を使わせます。

仮病の見舞いに城にやってきた半兵衛とその部下は、見舞いの品の中に
武器・防具を入れ、「酒や食べ物だ」と偽って城の中に入ります。

弟の部屋まで部下とやってきて、弟とともに武器・武具を整え、
自分・弟と部下数人とで城を乗っ取ったのでした。

そして、竹中半兵衛は、城にいた龍興を城から追い出し、
「おしっこ」をひっかけた取り巻きは斬り殺し、
そのまま、城を占拠しました。

これが、「稲葉山城乗っ取り」のお話になります。

乗っ取り後、織田信長から、
「美濃国(現在の岐阜県の南部)の半分をあたえるから城をよこせ」
といわれても竹中半兵衛は突っぱね、乗っ取りの1年後龍興へ城を返し、
自分は隠居して(部下を辞め)、弟へ領地を譲り、美濃国から退去してしまいました。

稲葉山城乗っ取りは、龍興の反省させるための行動で、
自分に欲がないということを、行動で表明したのでした。

戦国時代を激変させる城乗っ取り事件を、
たった19・20の若者がやったのかと思うと、若い人も知恵あれば、あなどれないなと思います。

次回以降、竹中半兵衛になぜこのような知恵があったのか?と
人としての仁義を守った竹中半兵衛の行動についてかいていきたいと思います。
読んでいただき、ありがとうございました。
税理士 森 広忠

まとめ

・「戦国時代 最高の軍師」は、竹中半兵衛と私は思っています

・若くても知恵があれば世の中をあっと言わせられるような歴史に残る事件を起こすことができる

・若き竹中半兵衛の知恵には、理由がある(次回かきます)

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ABOUT ME
森広忠
名古屋市出身、名古屋経済大学大学院卒業後、2008(平成20)年シンプルタックス森会計【森広忠税理士事務所】設立。税理士として、個人事業・中小企業の顧問を行う。実家が古くからある地主で、不動産賃貸業をアパート、貸倉庫、貸地、貸家、月極駐車場で営んだ経験あり。 顧問先に不動産賃貸業者が多く、不動産・不動産管理会社を利用した所得税・法人税・相続税の節税相談の経験が多くある。
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